自作短編小説 「青い宝石、青い海」part END
「すみません、ここに俺くらいの歳で、青い宝石の指輪を持った子供が一人で来てませんか」
朝早く、およそ十三か十四歳ほどであろう少年が公民館の扉を叩いた。
見るからに切羽の詰まったような形相に、対応した男性は助けを求めるように白髪の老人を呼ぶ。
「どうしたんだい?食べ物かなにかに困ってるのか?」
「いえ、俺くらいの歳の、青い宝石の指輪を持ってる子を知りませんか?探してるんです」
指輪という単語を聞いて、老人は半分だけ開いていた扉から駆け寄るように出でた。
「もしかして、坊やの友達かい?」
「そうなんです!俺が倫太郎だって言ってもらえばわかると思います。ここにいるんですか?」
即答せずに黙然とほかの男性と目を合わせる様に、興奮していた倫太郎は高揚した血液が急速に冷えていくのを感じた。一足遅く、大五郎は出ていったのかもしれないと。
「もしかしてもういないんですか……?」
「いや、いるよ。ともかくついてきてくれ」
誘導されるままに老人について行く。階段を登り、少し広い空間に数人の怪我人や病人が寝そべっている。
その空間の一番奥に、見慣れた顔の少年が横たわっていた。
無造作に開けられた口に、投げ出されたような四肢。
倫太郎は変わり果てた大五郎の姿に、しばらく唖然とせざるを得なかった。
「どうしてこんなことに……?」
恐る恐る尋ねた少年に、白髪の老人は自らの無力さを恥じるように答える。
「大事にしていた指輪を盗られたみたいでねぇ。私が面倒見てるんだが…。」
「大五郎……」
生気を感じない親友の瞳に、倫太郎は酷く後悔した。あの時無理矢理にでも連れていけばよかった。本人の意思を尊重するためと自分を騙して、母親を説得することから逃げていただけだ。
「君、この坊やと親友なんだろう?どこか元気の出るところへ連れて行ってやってくれないかね。思い出深いところならきっと……」
大五郎の焦点は定まるところなく、映ることない母親の幻影を求めてさまよっている。
全くもって動けない訳では無い。食べはするし飲みもする。排泄もすれば睡眠もする。
ただそれ以外はなにもすることなく、それらでさえ必要最小限度に留められているため、少年は酷く痩せこけているように見えた。
「大五郎、行こう」
倫太郎に促され、手を引かれるままに大五郎は歩を進める。相変わらず無気力でありながらも、確実に自分の足で歩いている。
他の誰もが何を言っても反応がなく、多少強引に歩かせようとしても足が力を持たず崩れていた彼を動かしたのは、親友である倫太郎の影響に他ならなかった。
「家に帰ったけど、やっぱり何も残ってなかったよ」
公民館を出てから、倫太郎は大五郎に語りかけ続ける。
大五郎と別れたあの時、彼がどこかへ知らない所へ行ってしまいそうで、二度と会えなくなってしまいそうで、いてもたってもいられず大五郎を探し出した。
何も反応がなくても、話しかけ続ければいつかまた、母親譲りの笑顔を俺に向けてくれるはず。
これからの生活や、自分の母親の説得など、倫太郎は何も苦に思わなかった。
自分はこうやって大五郎と一緒に歩くからこそ、明日も生きようと思う。
「指輪…取り返そうな。青い指輪」
自分の前では気丈に振舞っていても、大五郎は人がいない所でいつも指輪を見つめていた。大五郎が好きな青色の、アクアマリンがはめられた、彼の母親のようにとても綺麗な指輪。
大五郎の拳に強く握られていなければならない物が今、どこぞも知れない人の手にあると考えると、倫太郎はどうしても許すことが出来なかった。
年相応のか細い大五郎の自我を保たせていた崩壊した指輪とは、彼にとってまさに心そのものだったのかもしれない。
「お前の家もまっさらな更地だ」
酒井家が所有していたこの広い庭は二人にとって格好の遊び場だった。厳しかった父親の目を盗んでは、球投げをしたり鬼ごっこをしたり、まだ十数年という人生の中で多くの時間を過ごしたこの場所は、思い出深いという言葉ではとても表しきれない。
「懐かしいなぁ、お前の親父さんから逃げて一緒に隠れたこと、覚えてるか?」
崩れた門の位置から母屋を見つめていた倫太郎の傍らで、大五郎は依然として口を開かないでいる。
「もう見る影もないから仕方ないか……」
この家がかつての姿を保っていれば或いは、大五郎もなにか反応したかもしれない。しかし現実は、倫太郎の記憶から見ても全くの別物であった。燃えた木材に散乱した残骸、おそらく荒れようは人為的なものだろうと推測できる。その様子を見て彼は憤慨しそうな精神を抑圧して一人独語した。
「またいつか、昔みたいに戻そう。大五郎の家も、俺の家も、日本も」
大五郎の母親はおそらく、彼を迎えに来ることはないだろう。足が悪い中であの大火を逃れられたとは思えない。それは大五郎自身もわかっていたような気がする。
それでもなお探そうとする彼の意思を尊重して、倫太郎は何も言わず送り出し、そして親友は壊れてしまった。
「俺はやるよ大五郎、絶対に」
燃え葛が再び発火しそうなほどの日差しを降り注がせる八月の空に、倫太郎という一人の少年は確固たる決意を抱いた。
大五郎のために、第二の大五郎が生まれないために。この荒れてしまった日本を自分たちの手で立て直す。
そしてまた、大五郎の笑顔を見れるように。
「海へ行こう。あそこはいつでも変わらない」
倫太郎の足は自然と南へと向いていた。
怒られた時や落ち込んだ時、堤防に腰を下ろして一緒に波の音を聞いて、辺りが暗くなるまで語り尽くした。
そんな他愛のない、大切な思い出。
大五郎を顧みて、空を見つめる彼の手を引く。
「ここの道、俺も瓦礫の片付けを手伝ったんだ。綺麗になってるだろ?」
まだ数人、道端に散乱している木材やガラスの破片を撤去しているのが見える。頭皮を覗かせている壮年の男性に紛れて、彼らの子供だろうか、子供が遊ぶのを我慢して汗を流していた。
みんな頑張っている、俺も頑張らないと。倫太郎は力強く足の指に土を噛ませて進んでいく。
やがて開けていった視界には、不思議と人の姿がなく、堤防にただ二人、ポツンと世界に取り残されたような錯覚を抱かせた。
「ついたぞ、大五郎」
数日後には艦船で埋め尽くされるであろう東京の海に、時代に関係なく煌々と大地を照らす太陽が海へと差し込み、キラキラと輝いているように見える。
「いい風が吹いてる、なぁ」
親友は答えない。ただ、じっと海面を見つめていた。
焦点を失っていた目は、一転を凝視して離れようとしない。
「大五郎?」
倫太郎は言いも知れぬ不安に襲われ、親友へ再び語りかけた。
しかし彼の言葉は届くことなく、海の放つアクアマリンの輝きに大五郎の瞳は引き込まれていく。
どこかで待っている気がする。
自らの母親を浮かべていた青い宝石のような水面(みなも)に、彼はその探し求める人物を描いた。
「おっ母……」
すべてを優しく包み込んでくれる笑顔を見るため、再び会うことを願い、少年は探し求めた。
そして彼は、海に映る母を求めて直立していた体を傾かせる。
地面と水平になった後、頭の重みに抗することなく真っ逆さまに、青く深い海へとその身を落とした。
「大五郎!!!」
親友の声が少しずつ遠くなっていく。
やっと会えた、おっ母はここで待っていたんだ。
底へ向かうにつれて次第に暗くなる海の中で、大五郎は静かに笑った。
自作短編小説 「青い宝石、青い海」part5
「子供が起きたよ!」
仕事もひと段落ついた時、ある意味で待ち望んでいた声音が彼を呼んだ。ようやく追い出せる、そんな安堵感が階段を登る老人の疲れた足を機敏に動かした。
「この子、何を聞いても答えないのよ」
上半身を起こし、青い空を眺めている少年を女性は心配そうに見つめている。
食糧難で多少は痩せこけているが、綺麗に整えられた髪にと可愛げのあったであろう顔から、名家の出であろうことは想像できた。
「坊や、身寄りはいないのか?」
その他数回にわたる問いかけに大五郎は一つも答えなかった。それどころかまるで耳に入っていないかのように見向きもしない様子に、白髪の老人は疑問と共に既視感を抱いた。
「子供が起きたんだって?」
「えぇ、でも何も喋らないのよ」
「やましい事があるんじゃないのか?」
再び集まってきた大人達にも少年は微動だにしない。さすがに不思議に思った壮年の男が大五郎の顔を覗き込むと、狐につままれたように表情筋を緩ませた。
「おい、この子……」
老人も続くように覗き込む。焦点が合わないように虚空を見つめ、ただ太陽の光を反射するだけの水晶体。そして呼びかけに反応しないのを鑑みると、老人の既視感は確信へと変わった。
「この坊や……壊れとる」
彼の既視感は朝鮮の捕虜収容所にあった。覚醒剤を使用され、身も心も壊れ果てたロシアの青年兵。少年の呟いた『指輪』という言葉と、この様子を脳内で結びつけるまでにさほど時間は必要としなかった。
「……どうするんだ」
感情と理性という相対する二つを天秤に掛け、白髪の老人の体は少なからず揺れた。葛藤する自らを断ち切るように、彼は少年の顔を見やり、そして小さく頷いた。
「……私が面倒を見るよ」
安心したように長息を吐く者、呆れて表情で諭す者、多少の違いはあれどもいずれ彼の側を離れていった。
みんな自分が生きていくだけで手一杯なのだ。それを老人は咎めることなど出来るはずもなかった。
まるで唸りのような響きが、嘆息する老人の鼓膜を打つ。
朝から何と食べていなかったのだろう、その重低音は老人の空腹感までも刺激した。
「そろそろ飯の準備をしないとな」
公民館にも僅かだが配給がある。少し前までは全員分の配給を合わせて余裕もあったが、今の配給はその時の備蓄を消費しなければ足らないほどになってしまった。
一つのサツマイモを細かく切り、沸騰したお湯の中で煮崩れるまで煮て、塩など僅かに手に入る調味料で味付けされたスープが主食となって久しい。
頂点付近にあった太陽が、いつの間にか西の山へと沈もうとしている。
いつもよりも一食分多く煮立てられた夕食を、各々決められた分だけ受け取り、口へと運ぶ。久しぶりにサイレンの鳴らない静かな夜に、虫のさざめきが心地よい音色を公民館の人々へと齎した。
老人は両手に器を抱えて階段を上がる。開かれた障子扉から、外から入り込んだであろう夜風が老人の持つスープを僅かに揺らす。
「坊や、お腹が空いているだろう。食べなさい」
差し出された器を大五郎は受け取ろうとしなかった。というよりも、眼中に入ってないように見向きもしなかった。
「大丈夫だ、変な物は入ってないよ。むしろ足りてないくらいだ。サツマイモと多少の調味料、味は案外悪くない」
少年は光の宿っていないその瞳孔を、器に浸っている液体へと動かす。
何かを探すように凝視する意図を、老人は計り知れず少し首を傾げるも、本当は食べたいのであろうと推測するに留まった。
「ほら」
木で作られたスプーンで掬い、大五郎の口元へと運ぶ。自ら口を開こうとしない様子を見て、老人は手を使い口に含ませる。すると少年は特に顎へ垂れ流すこともなくスープを飲み込んだ。
その様子を見て老人はほっと胸をなでおろした。
「良かった、食べれなかったらどうしようかと思ったよ」
続けざまに、しかしゆっくりと一回一回飲み込んだのを確認しながら老人は少年に食べさせていく。
「おいしいだろう?」
問いかけに大五郎は答えない、じっと揺れるスープの表面を見つめるだけ。幾度となく繰り返しても反応は同じだった。
「戦争は本当に嫌なものだねぇ、たかが土地や考え方のために色んな人間を壊していく。坊やのような子供もお構い無しだ」
空になった器を重ね、ゆっくりと側にあった小机へと置く。再び外の青白く光っている月に視線を向けた少年に老人は語りかけ続ける。
「私も日露戦争の時は、生き残るために坊やの少し年上くらいの子供を殺したよ。その子が生きただろう分を吸い取ってこうして生きてる。
本当は逆であるべきなんだ、若者は老人たちの生気を吸収して、彼らが新しい時代を作って、私達はひっそりと退場する。無駄に長生きしてもこうして罪滅ぼしという自己満足をするしかないんだから」
老人もまん丸と象られた満月を眺める。その周囲にある星がまるで月を飾り立てるように瞬いていた。
「本当に戦争は嫌なものだねぇ……」
傍らに置いていた器を手にし、老人は少年から去っていく。大五郎の周囲のベッドで横になっている人々は皆夢の世界へと誘われている。
「今日はもう休みなさい」
そう言って老人は背を向け、僅かに動いた大五郎の視線に気付くことなく階段を下っていく。月明かりのみが照らす閑散とした東京の夜は少しずつ更けていった。
自作短編小説 「青い宝石、青い海」part4
三十分ほどであろうか。大五郎は崩れかけた公民館の入口で、うずくまって座っていた。横を通っていく大人達の懐疑の念に抱かれた視線を感じながら。
「坊や、どうしたんだい?」
大五郎に話しかけたのは白髪で頭頂部付近が埋め尽くされた老人だった。浩二と名乗った男とは違う優しさの感じられる笑顔を向けている。
「人待ってる……」
「人?ここに誰か入院しているのかい?」
「いや、入っていった人……。入院してる人を確かめに行った」
頼りどころのない小さな声で大五郎が答えると、白髪の老人は首を傾げる。
「私はさっきまで入院患者がいる二階で作業してたけど、誰も登ってこなかったねぇ。そこにしか患者はいないはずだけど」
大五郎は思わず鼻白んだ。
「そんな……」先程のように小さい声、しかし吐かれた息に乗せられて老人の鼓膜を打った。もしかしてこの子は誰かに騙されたのではないだろうか。老人が心配して声をかけるよりも早く、大五郎は公民館の中へ走り出した。
「坊や!」
白髪の老人の呼び掛けは大五郎に届かず、少年は一直線に二階へと駆け上がった。しかしそこに居たのは、急ぐあまりに荒々しく開けられた扉に驚いたベットに横たわる人々だけであった。細身の男などどこにもいない。
急いで追いかけてきた老人は大五郎の様子を察して語りかける。
「坊や、お金でもだまし取られたのかい?大丈夫、ここならご飯はあるし寝床もある。もちろんお金なんて取らないよ。だから安心して」
大五郎は老人の言葉など耳に入らぬようで、みるみるうちに血色を失っていく。
「それともなにか大切なものを盗られた?私に言ってご覧、なにか力になれるかもしれない」
じっと地面の一点を見つめていた少年はつぐんでいた口を震わせ、今にも崩れ落ちそうな全身をなんとか支えながら呟いた。
「おっ母の……指輪が……指輪が……」
そして、まるで咆哮のような喚き声の後、堰が切れたように少年の目鼻から彼の感情が液体として流れ出す。
拠り所を奪われた彼の自我は、自分では制御できない波を作り出して、大五郎の精神を襲い、そして壊していく。
「坊や、大丈夫かしっかりしろ!おい!」
目は焦点が合わず涙ばかり滝のように流し、口からは唾液を垂らす様子は、事情を把握しきれていなかった老人にも、ただならぬ事だということを理解させるに容易であった。
「誰か手伝ってくれ!とりあえず落ち着くまでベッドに運ぼう」
大人数人が大五郎の周囲に集まって彼を担ぐ。しかし暴れる様子はなく、されるがままに体を委ねている。
「この坊ちゃんは大丈夫か?一体何があったんだ」
「いやわからん……」
取り囲んでいた人達は、まるで腫れ物を扱うかのように遠巻きに少年を見つめている。それぞれが悲嘆の声をあげるばかりで、白髪の老人を除いて誰も大五郎に近付こうとしなかった。
「この子、どうするんだ」
その中にあった壮年の男性が老人に問いかける。
「……」
老人は決して即答しなかった。
幼気な子供とはいえ、最近では子供を使った物盗りもある。『触らぬ神に祟りなし』ということわざは、如実にこの時代を表していた。
「とりあえず寝かせておいて、しばらくすれば勝手に出ていくだろう。母親か誰かが迎えに来るやもしれない。一応食料だけは注意しておくべきか」
ありきたりな理由を口上に並べ、白髪の老人は一の字に口をつぐんだ。自分の言ったことは、紛いなりにも集団を統括している者として間違ってない。危機管理は長として十分に考慮すべきであるし、子供とはいえ油断した方が悪いと言われるご時世だからこそ正しい対応だと思う。
「よし皆、そろそろ仕事に戻ってくれ。薪も足りなくなってきたし、今日は忙しいぞ」
周囲に集まっていた男達は散らすように次々とその場を離れていく。
「指輪か……」
少年が呟いた一つの言葉が、老人のか細い足を窓のそばに置かれたベッドへ釘付けにさせていた。恐らくは軍の赤紙にも該当しないほどの子供、齢は十三かそこらであろう。彼が公民館の前で語ったことから推測するに、誰かに騙されたであろうという考えには容易に至るからこそ、老人の心へ鉤爪のように引っかかっていた。
「悪いけど、この子が起きた後悪さしないように見張っていてくれ。」
少年の隣に横たわっている女性に諸々を任せ、老人もその場を離れる。ほかが仕事をしている中で自分だけがなにもしないというのは、老人の性分に合わなかった。
外は、連日のように聞こえていた学徒出陣の声から東京の支配権を譲り受けた真夏の燃えるような太陽が、ジリジリと地面が焦げたような音を耳に残して、痩せこける人々の肌に汗を伝わせている。
炊事用の薪を割る者や、水を運ぶ者、そして今日の配給を受け取りに行く者と、分担された仕事を各々こなしながら、滲み出た額の水分をしきりに拭う。
若いもんと周りから呼ばれるものでさえ壮年と言ってよく、皆衰えつつある体力を奮った上に協力してなんとかその日を生きていた。
すっかり寂しくなったものだ。
数年前までは宮城の近くに若者達の声が木霊していたというのに、今や内地に残ったのはあの少年のような子供と、自分のような老人だけになってしまった。
「おーい、こっち手伝ってくれ」
「おう」
己を必要とする声に誘われ、老人は悲鳴をあげる体に鞭を打つ。航空機一つ飛ばず爆弾も降らない、待ち望んでいた安全な空の下にあるはずなのに、どこか清々しい気分にはなれない。事あるごとに二階の窓を見やってしまう。
見捨てるには酷すぎると自身も思う。さっさと放り出さないで公民館に寝かせたのは踏ん切りのつかない葛藤の現れだ。日露戦争の兵役が終わってからどうしてこう優柔不断になるのか、自分ではわかっていながらもそれを他人に漏らしたりしなかったのは年寄り特有の頑固さだったのかもしれない。
自作短編小説 「青い宝石、青い海」part3
「おっと、坊主来い」
男は大五郎の手を引くと、自分の傍らへと導いた。
すると間も置かず、炭の黒煙を吹かせた車両が轟音を撒き散らしながら過ぎ去っていく。
車中には高級そうな茶褐色の軍服を見事に着こなした初老の男がこちらに視線を移してニコリと微笑んだ。
「ありゃ陸軍のお偉いさんだな。戦争が終わって事後処理に走り回ってるんだろう、あの将校の命もずっと戦ってきた奴さんによって裁かれるんだから長くはないな」
ふと宮城の方を見ると、先ほどの車によって離散している。突っ伏していた人達の目元には、痕はあれども涙はなかった。
「解散みたいだし、俺達も行くとするか。どこか心当たりはあるのか?」
「ここかなと思ってた。あとは家辺りくらいしか……」
「じゃあ行ってみるか、どこらへんなんだ」
「海の方……」
戦前に比べれば随分と開けた。開けたというより、全て焼けてしまってほとんど瓦礫しか残ってない。
コンクリートで作られた重要な建物は爆弾で壊され、一般市民の家は焼夷弾ですべて燃やされてしまったのだ。
しかしそれらの瓦礫は、かつて建物があったであろう部分に寄せられ、道はデコボコになりながらも何とか戦前の原型を保っている。
戦争が終わり、空襲の心配が無くなったことで東京へ降りてきた人々による復旧作業がすでに行われつつある証拠であった。
「みんなあぁやって明日のために泥臭く頑張ってる、生きるために必死だ」
所々で家族との再会を喜ぶ集団がいる、恐らく空襲の前にあらかじめ集合場所を決めていたのだろう。大五郎たちは決めなかった、母親の足が悪いから一緒に逃げるしかないと考えていたから。
「そういや坊主、俺の名前は田畠浩二って言うんだがお前の名前はなんて言うんだ?」
「大五郎……、酒井大五郎」
「この辺で酒井といえば…武家の名門じゃないか、通りでその宝石も頷ける。大五郎ということは五男か?兄弟はどうしてる?」
「お父もお兄達もみんな戦争に行った、残ったのは僕とおっ母だけ」
視界に溢れる情景から意識を逸らすように、矢継ぎ早に放たれる質問の矢に大五郎は聞かれるままに答えていく。
高等小学校を卒業する前の少年には、いくら強がったところで、自分自身の境遇をそう簡単に受け入れることが出来なかった。
「まぁ名家とはいえまだまだガキだな、坊主で十分だ」
浩二と名乗った男は破顔一笑し、ケタケタと喉を鳴らしながら仰け反った。その大五郎の様子を見て言ったのか、それのもただ外見で判断したのかは定かでない。
だが、自分がまだ子供と言われたということだけは理解して大五郎は嘆息する。
「……しかし手掛かりがその指輪だけというのも厄介な話だな。よく見せてくれないか」
男は要求するように左の掌を仰向けにして差し出したが、大五郎は指輪を手渡さずに丸環へ指を通して、男に見せるよう掲げた。
「これはアクアマリン……坊主の親父さんは海軍の軍人だったのか?」
「おっ父だけじゃなくお兄たちも海軍に入った。これはおっ父がくれたって大事にしてたやつ」
「坊主はまだガキだからわからんだろうが、これはなかなか高価なやつなんだぞ。さすがは名家って感じだな。それを今まで大事にしているとは、きっと父親も母親も素晴らしいお人なんだろう」
家族のことを褒められてすこし、嬉しいという感情が顔付きに現れて頬を緩ませる。男はそれを見ると、まるで父親であるかのように大五郎の頭を二、三回くしゃくしゃに撫でた。
「たぶん……ここ」
道を歩いて一時間ほど、家があるところまでたどり着いた。いや、広かったであろう敷地に燃えた木材が無造作に積み上がっているところを見れば、家があったと表現する方が正しい。しかしここは確かに大五郎が記憶する家の位置である。
もう何も残っていないんだ。覚悟はしていたが、改めて主張されると流石に堪えてしまう。
「うーん、この様子だとどうなったかわからんなぁ。多分生きていたら今頃病院なり公民館なりに運ばれて治療を受けてるだろうが、一応探してみるか」
男は門があったはずのところに横たわる真っ黒になった木材を乗り越え、建物の残骸を漁り始めた。
「おおっと、ここは坊主には些か危ないな。そこら辺を見てくれるか」
同じように乗り越えようとした大五郎へ男の指示が飛ぶ。たしかに敷地内は尖った破片など危険なものが散在しており、第一この門跡も乗り越えるのは厳しそうだ。
大五郎は素直に従って辺りを探し始める。
「ほう……。なかなか……」
男は一人でぶつぶつと独語しつつ手を動かす。だがその声はかなり小さいもので、少し距離が開いていた大五郎へ届くことはなかった。
これもまた一時間ほどであろうか。
大五郎が門の周囲をくまなく探し終わったあたりで声をかけた。
「やっぱりいなさそうだ、人だっただろうモノもない。多分公民館かどこかだろうな。行ってみるか」
辺りに転がっている破片を踏む音なのか、少し金属音を響かせながら男は門跡を乗り越える。どうやら地元民のようで、大五郎の案内をうけることなく公民館の方角へとそそくさと歩いていく。
宮城と家しか思い当たる節がなかった大五郎は、小走りで後に続く。行くあてなく彷徨うよりかは数倍マシだろう。そう考えた。
「坊主、さっきも言ったけどな、その指輪はたった一つの手掛かりだ」
「うん」
「公民館に運ばれてると考えると、酷い火傷でお前でも判別がつかない。だからこそ、その指輪を見せて反応を確かめるんだ」
大五郎は頷く。男の進める歩は、公民館が近付くにつれて大五郎に似合わせるようにゆっくりとなっていった。
「でもな、坊主みたいな子供が指輪を見せつけて歩き回ってみろ。絶対に邪なことを考える輩が力ずくにでも奪いに来るかもしれない。こんなご時世だからな」
男は出会った時のように、顔をしわくちゃにしてニッコリと笑いかける。
「そんな大事な物奪われたらダメだ。しかも指輪は小さいものだから一回見失うともうわからない。そこでだ、俺に指輪預けてくれないか。坊主は外で待っていてくれれば俺が確かめてきてやるよ」
大五郎は流石に即答しかねた。今の少年にとって指輪とは、まさに母親そのものであるといっても過言ではない。心の拠り所を人に渡すというのは並大抵なことではなった。
「大丈夫だ、俺はこれでも元特高警察だぞ。誰かに取られなんかしないさ。
指輪を握りしめ、小さく震えていた大五郎の手を、男は両手で優しく包み込んだ。その肌の温かみに触れ、少年の震えは次第に収まっていく。硬直していた右手は力が抜けるように指輪を男の手のひらへと落とす。
「ちょっと待ってな」男はそう言い残すと、足早に公民館へと入っていった。
自作短編小説 「青い宝石、青い海」part2
宮城の周囲には、避難先の山村とは比べ物にならないほどの人達がその体を、英数字の二のように折り曲げている。
薄れゆく記憶の海の中に潜ると、僕とおっ母がはぐれた時、確かに宮城の白い漆喰がそこにあった。
もしかしたらここにいるかもしれない。その僅かな可能性の糸を手繰るように導かれてきた。
「これじゃ探せないな……」
しかしここまで人が多いとは思わなかった。御上は確かにお偉い方だけど、僕はそれ以上に家族の方が大事だと思う。こんなことちょっと前までは口走っただけで軍人さんに連れていかれたけれど、今は彼らの姿すら見えない。
でもこれだけの人達が御上のために集まっているのは、
ある意味で好都合なのかもしれない。おっ母は足が悪いけど耳はよかった。
もしここにいるなら、大声で叫べば絶対に気付いてくれる。
「お母さん!」
肺に大きく息を吸いこんだ時、自分の声帯ではない別の声の響きが、その吸い込んだ空気を不意に体外へと放出させた。
「え……?」
もちろん自分が出した声ではない。でも確かに聞こえた。
大五郎は先程よりも注意深く目を配ると、門前に跪く人の塊の奥、かつて官庁などがあった辺りで抱き合う親子を見出した。
自分だけではなかったのか…。もちろん落胆したが、同時にどこか安堵したような感覚に襲われた。
母親を探しているのは自分だけじゃない、しかも目の前で再開を果たしている。僕も希望を持って探し続ければ必ずどこかで出会えるんだ。
その感情を意中に残しつつも、大五郎は親子の姿を視界に留めておくことが出来なかった。まだ精神的にも幼い彼にとっては、自分が未だに一人ぼっちであるという現実から目を背けたかったのである。
「おっ母……」
大五郎がただ一つ、母親を感じることが出来るのは、左手に大事に握りしめられた、青い宝石があてがわれている指輪だけだ。
いつも寂しくなったらこの青い宝石を見つめる。そうするとその中に母親の優しい笑顔が映って励ましてくれる。
この時も、握っていた指輪を人差し指と親指で挟み、青い宝石をじっと見つめていた。
「どうした坊主、迷子か」
惚けていた大五郎の、宝石を透過した視線のその先に、小柄な人影が浮かび上がる。顔を上げると、痩せていながらも目力だけはしっかりとしている男が立ち、彼を見下ろしていた。
「おいおい、そんなにビクビクしないでくれよ。戦争も終わってみんな明日の生活に困ってるんだ。助け合おうってだけだ」
このご時世、一人で歩いている子供に話しかけるほど人々に余裕はない。みんな自分が生きるだけで精一杯だからだ。
「大丈夫ですから……」
「まぁそう言うな、手伝わせてくれ。俺にも坊主くらいの子供がいてなぁ、この前の空襲で死んじまったよ。坊主を見てると親心が湧いて仕方ないんだ」
男はにこにこ笑いながらも、瞳に少しの憂いを見せた。
母親を探す大五郎にとってその面持ちは、一人ぼっちの寂しさで満ちていた心に風穴を開けるものであっただろう。
そこから流れ出た心は、大五郎の口を通して溢れ出た。
「…おっ母を探してるんです」
「そうか…つまるところ、その指輪は母親のかい?」
指摘されて再び強く握りしめた様子を見て、男は「大切な物なんだなぁ」と独語した。
「逆に言えばその指輪が母親への手掛かりってわけだ。坊主、ちゃんと握りしめておくんだぞ」
大五郎は黙然と頷く。久々に感じる父親のような暖かさに、そうする他思い当たらなかったのだ。
自作短編小説 「青い宝石、青い海」part1
燃え残った木材の周囲に火片が舞い、過ぎ去った時代の残滓を視覚へと訴えかける。鼻腔を突く煙臭が疎開から下ってきた人々にまとわりつき、徒労感と共に重々しく肩へとのしかかった。
見渡す限りの焼け野原には、数少ないコンクリート製の建物と、主上の御座す宮城だけが残され、帰るべき場所を無くした皇国の民達を路頭に迷わせたのだ。
「…耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す…」
放送が流れた時、大半の臣民はその場に泣き崩れ、何ら躊躇することなく半身を大地に預けている。
少なくとも僕の周囲ではそうだった。僕はその光景を立ち尽くしたまま眺めていたのだ。
これらの人々は玉音が終わったあともその余韻に身を委ねて立ち上がろうとしない。だから歩き出した僕のことなど一人を除いて誰も気付かなかった。
「大五郎、どこにいくんだ」
共に帝都東京から逃げてきた倫太郎が僕を呼び止めた。彼の母親は遠くラジオの近くで未だ泣き崩れている。
「おっ母を探しに行く、もう空襲の心配はないし」
「一人で?」
「おっ父もお兄もいないししょうがない」
「そうじゃない、俺達みたいな十五にもならない子供がたった一人で東京に出たところで何も出来ないだろ?俺も母さんと東京へ戻るつもりだから一緒に行こう」
僕はただ黙然とそれに従った、いや従うしかなかった。倫太郎はいつも正論を言う。いつもそれに反論できずに、僕は負け惜しみを独語するだけだった。
ここ最近では珍しく、鉄の塊一つも飛ばない澄んだ青い空を朦朧と眺める。
足の悪いおっ母とはぐれた東京の大空襲から、生きているとも死んだとも聞かないまま三ヶ月が経った。でもどこかで僕を待っている気がする。探さなきゃいけないんだ。
次第に何も無かった空におっ母の笑った顔が浮かんでは消えていく。たった九十日くらいしか過ぎていないのに、あの優しい顔を明確に思い出せない自分の脳みそを恨めしく思う。
「行こう大五郎」
いつも通り険しい顔したおばさんが、いつの間にか倫太郎の前をさっさと歩いていく。あとを着いていく僕を一瞥するとさらに機嫌が悪くなったようにも感じられた。やはりおばさんは僕の事が嫌いみたいだ。
「僕東京についたらあとは一人で行くよ」
「え?でも一人じゃ危ない、さっきも話したじゃないか」
「いいんだ、いつまでも世話になるわけにはいかない」
僕は無意識におばさんの方を見ていたのかもしれない。倫太郎が自分の母親をのぞき見てすぐに視線を戻した。
「水臭いこと言うなよ大五郎、俺たちで精一杯働けばいいんだ」
「実は叔父がいるんだ、そこを頼るよ」
我ながらわかりやすい嘘をついたと思う。今まで散々身寄りがないと話してきているのを倫太郎が忘れたわけがない。
「そうなの、良かったわねぇ。倫太郎、大五郎くんは決めたんだからあまり他人がとやかく言うことじゃないわよ」
おばさんにお世話になる時も同じことを説明して、やっとのことで認めてくれた。倫太郎と同様におばさんも忘れたはずはない。
倫太郎は苦虫を噛み潰したような表情で地面の一点をじっと見つめ、荒々しく息を吐く。強く握りしめていた両手を僕の肩に乗せて彼は固く縫い付けられていた口を強引に開いた。
「ごめんな大五郎、ごめんな。お前のために何も出来ない俺を許してくれ」
「いいんだ、おっ母探すのを手伝わせるわけにもいかないし」
感傷に浸っているとどうにも決意が鈍りそうになる。本当に倫太郎はイイヤツだと思う。だからこそ頼ってはいけないんだ。
乗せられた両手を払おうとしたが、加えられていた力は予想以上に強いもので振り払うことが出来なかった。
「本当に行くのか?」
「……うん、おっ母はどこかで待ってる気がするんだ。僕から会いに行かなきゃ会えないから……」
今度こそ倫太郎の両手を退けようと手を伸ばす。しかしその手は、大五郎の力を必要とせずに、所有者の意志をもって大五郎の体から離れた。
「分かった。俺と母さんは元々住んでいた辺りに行く、困ったらいつでも来てくれよ。待っているからな」
僕は頷くことも答えることもしなかった。ただ、彼から背を向けて一心不乱に足を交互に動かす。
倫太郎も、もう呼び止めることはなかった。ただ僕の姿が見えなくなるまで、背中に視線を感じていたような気がする。僕がそのように思いたいだけなのか、本当に見送っていたか、定かではないけれど、少なくとも僕はそう感じていたかった。
はじめに
このブログでは、私が少しずつ書いていった小説を、そのままごみ箱に捨てるよりはと思い、少しずつお見せしていこうと考えています。
主にライトな内容というよりかは純文学チックな内容になりますので、痰の絡まるようなしつこい文も多々ありますが、それも含めて私の小説と理解していただければ幸いです。
お一人でも私に作品を見て頂ければ大変嬉しく思います。
様々な批評等大歓迎ですので、宜しくお願いします。